線路の数が8本あると、先日ある人から聞いたが、地図で見ると6本だ。阪急嵐山駅の話だ。現在は6本のうち2本が使用されている。
これはかつて6本全部を使うほどに戦前は観光客がたくさん嵐山にやって来たのだろう。当時は今の京阪電鉄が所有していたが、戦後阪急が成長して京都線を買収した。そう言えば一昨日、深夜のTV番組で京阪神の私鉄の謎をいろいろとクイズ形式で伝えていて、計画されながら実現しなかった路線の話が特に面白かった。鉄道ファンなら知る人は多いのかもしれないが、一般人はそうしたことに馴染みがない。番組で興味深かったのは、路線延長の計画は数十年、いや時として100年近く前から浮上しながら、それがさまざまな理由で実現しなままになっているかと思えば、経営者の代を経てまたにわかに実現しそうになるなど、路線の計画はとかく息が長いことだ。その壮大さがロマンを感じさせる。何かで読んだことがあるが、新幹線も戦前から計画があった。それに筆者が小学生1、2年の頃の月刊漫画雑誌には、今も実験が続いているリニア・モーターカーの紹介があった。鉄道の計画とその実現は人生よりはるかに長い。それを思えば、電車を撮影するカメラ小僧の気持ちも何となく理解出来る。話を戻して、嵐山駅ホーム内の今使っていない4本分の用地を、なぜ整地してどこかに貸すなどしないのだろう。錆びたレールや朽ちたプラットホームがそのまま放置され、宝の持ち腐れに思える。だが、息の長い路線計画からすれば、いつか嵐山駅が拡張ということも起こるかもしれない。たとえば、嵐山は秋になると、数年前からパーク・アンド・ライド方式を一部採用し、一般の車を嵐山になるべく乗り入れさせない。早朝や深夜は別だが、観光客の多い日中は物集女街道は車が北進出来ず、渡月橋には向かえない。これは電気自動車の時代になっても同じはずで、とにかく車の渋滞で前進出来ないことを制御するのが目的だ。地元で商売している人が多いので、全部の車を閉め出すことは出来ないが、嵐山に車を入れないことには筆者は賛成だ。狭い区域に車だらけでは、せっかくの観光も台なしになる。景色を楽しみたい人は電車で来ればいい。嵐山駅から梅田までは1時間より数分短くて済むほどの距離で、わざわざ車で来るところではない。そして、みんなが車で来なくなれば、駅の線路はまた6本とも必要ということになるかもしれない。それは夢ではなく、ちょっとした条例ひとつで実現する。だが、一旦覚えた車の便利さと、また駅前に整備された道路を思えば、車の進入が今後減ることは難しい。
あるいは嵐山駅と別の路線を結ぶという計画が浮上した時、今使われていない線路の部分が何らかの形で活用されることもあり得る。その別の路線とは、たとえば京都市が計画している地下鉄東西線の延長だ。現在は太秦の天神川で西進が止まっているが、これは市の財政がないからで、長い目で見るとまた景気が復活した時に、それを松尾ないし嵐山まで延長する話は持ち上がるに決まっている。あるいは市がやらずに、阪急に任せて嵐山から北進して桂川の下を潜り、三条通りの地下をそのまま進んで太秦で結ぶということも考えられる。そうした次の代かその次の代に実現しそうな路線のために、とにかく今は古いプラットホームと線路をそのまま放置していることも考えられる。ゆっくりとではあっても、確実に時代に応じて都市は変化して行く。今日は3月15日に撮った2枚を掲げながら、そんなことについて以下書く。駅前左手には嵐山タクシーがある。中型車が全部で30台ほどだろうか。昔から真っ白の車体で、駅前から大覚寺など、電車が通っていない方面に行く人をもっぱら運ぶ。この会社の土地は変形で、駅と同じ方面、つまり南方に少し延びている。そして駅とは狭い道路1本を隔てて接していて、その道路は筆者を含め、駅を通勤通学で使う人は必ず歩く重要な道だ。おまけに車も頻繁に行き来する。ところが、タクシー会社はかなり古いままの建物をそのまま使っていて、老朽化が激しい。特にそうであったのが、その道に面した建物の壁だ。平屋建てで、屋根には高さ1メートル近い雑草が生えるほどに放ったらかしにされていた。そこは駅を下りた人には見えない。観光客は駅前を先に進み、プラットホームに沿って逆戻りすることはまずないからだ。そのように、地元の人しか通らないためもあったからであろう。簡単に言えば、観光客にはわからないから放置してよく、地元の人に迷惑顔をされても平気という感覚だ。ところがその壁がついに数年前にごっそりと道側に倒れた。その危険性を常々思っていたので、筆者はいつか抗議に行こうと考えていた矢先であった。いや、正確に言えば、筆者は抗議に行った。それは、その壁より筆者の住む側に近い一角に自転車がよくたくさん停められ、そのことに地元住民がとても困っていたからだ。その不法駐輪を取り締まるのはその土地の所有者であるという考えに立って、筆者は抗議に行ったのだ。もっとも、その2、3年前から組長が抗議していたが、全く聞き入れられなかった。それで筆者が組長になった時に即座に言いに行った。筆者の口ぶりがあまりにも歯に衣着せないとか何とか、先方ではかなり話題になったようだが、その抗議によって瞬時に問題は解決した。そして、その時の筆者の行動の迅速さと説得力によって、自治会長になってもらおうという話が進んだようだ。
さて、住民が迷惑していることであるから筆者は抗議に行ったが、そうでないことは多少は目をつむる必要もある。それが駅とタクシー会社を隔てる道沿いの恐ろしく古ぼけた壁であった。古いものを新しくしてはどうかというくらいの注文は言えるかもしれないが、こっちの勝手と言われればそれまでだ。ところが、ついにその壁が倒れて粉々になった。筆者はてっきり新しい建物に変わるかと期待したが、残念ながらそうはならなかった。何事も甘く考えては裏切られる。代わりにトタン板で塞がれたのだ。そして、すぐに落書きがされた。そうした落書きは嵐山地区ではきわめて珍しい。それほどにそこは誰の目にも荒れているように映ったのだ。そうした落書きから始まって、やがてその地域が荒れて行くということをTV番組などで知って懸念していた筆者は、毎日のようにその落書きを見ながら内心苦々しかった。ある時などは自分でペンキを買い、許可を得てそのトタン壁全体を塗り直そうかと思ったほどだ。ところが、何年も気になっていたその壁がある理由から取り払われることになった。筆者の何年にもわたる願いがついに神がかなえたのかもしれない。取り払われるというニュースを聞いたのは、筆者が自治会長をしているためだ。その取り壊しの理由とは、駅前の土地が阪急から京都市の所有にこのたび代わったため、今まで駅前広場の黄色い鉄柱際ぎりぎりに車を5、6台も停めて客待ちをしていたタクシーの駐車が、市との談判のすえに却下された。そのため、タクシー会社は自社の敷地内に停めるしかなく、そうなれば車の出入りの方角も変化し、今まで閉じていた道沿いの壁面を開けて、そこから車を出そうということになった。その工事は4月下旬までかかる。その工事案内のチラシが入ったのが3月13か14日であった。筆者はこれも駅前の変化のひとつと思い、その壁がなくなって新しくなる様子を写真で記録しようと考えた。その最初の写真が今日掲げるものだ。落書きの壁が見えるだろうか。そこが以前ごっそりと壁が倒れた部分だ。落書きの壁の奥にはポスターがやたら貼られている。全部政治家のものだ。その右手に緑色の金網で囲った小さな土地がある。それは用途不明の阪急の所有だ。そこに黄色の幟旗が1本立っている。これは筆者が自治連合会から委ねられたうちの1本で、阪急の駅員の許可を得て筆者がひとりで針金でくくりつけた。この旗の横あたりにたくさんの自転車が停められるのがまた問題で、車が出入りする時にとても邪魔になる。