整地を急いだのは桜の開花に伴なって大勢の人が押し寄せるためで、駅前の円形の植え込みは急ピッチで地ならしがされた。嵐山はやはり桜主体であることがわかる。
だが、そこには利害も絡む。そして、そういうところにある桜がそうでないところに咲く桜より美しいかどうか。これはなかなか難しい問題でもある。先日書いたように、筆者が自転車に乗って行く遠方のスーパーの途中、線路沿いにある1本の桜の古木が好きだ。先日それを電車の窓から、また自転車で通りがかった時にも見た。ところが、樹勢はさっぱりだ。枝もかなり払われたようで、形が全くよくなくてがっかりした。それは私有地に立つものかもしれず、また付近は名所とは何の関係もないので、線路沿いにはたくさんある桜の単なる無個性の1本とみなされて、ほとんどろくな手入れもされていないだろう。これが嵐山にあれば人はもっと注目し、さすが嵐山などと囃すであろうから、名所の威力というものは大きい。だが、筆者にはその忘れられたようなところに勝手に咲く桜がとても印象的で、春になるといつも思い出す。これは筆者の性格を表わしているのかもしれない。そして、その注目する桜が本当にどうでもいいような桜の1本になり下がって見えたことは何だかさびしいが、それもまた生きるものの運命の象徴にも思える。今思い出したが、20年ほど前に見たフランス映画で『汚れた血』というのがあった。それに出ていた印象的な主演女優のその後の作品に、ある男がその女性を熱烈に愛し、結局別れて10年後ほど経った後、その男は空港でその女性とその家族を見かける。その時に男は、なぜこんな平凡な女性にあれほど熱を入れたのかと不思議に思う。どんな内容の映画だったかさっぱり記憶にないが、その最後の場面だけはよく覚えている。恋をしてい時と、それが冷めた時とは、全然違った思いになることの典型的な話だが、恋をしている時は誰が何と言っても当人たちはそれに耳を貸さず、自分たちが絶対だと信じ込む。だが、やがて必ずその熱は冷める。その時にふたりがどう踏みとどまる、あるいは恋とは別のと言ってよい感情を受け入れるかだ。人間の思いとはそのように熱くなったりまた冷めたりするもので、それをよく理解しながらも、やはりいつも何事かに熱くなることをどこかで求めている。ところが、これが生身の人間相手では、面倒なことが生じやすくもあるし、また若い時ならいいが、自分でも愕然とするほどに年齢相応の皺を鏡の中に確認するなどして、弱気、あきらめ、控えめになりがちだ。そして、そうなればなったでそのことがなおさら加速化されて老人の仲間入りをするが、それは年齢から言えばごく自然なことだ。ところがそうではない要素が働くことがある。人間で言えばそれは経済状態だ。貧しいからいい服を買うことが出来ず、華やかな場所にも踏み入れないといったことが積み重なると、やがてそれが当人の全身から発散されるようになり、人もそのような目で見つめるようになる。そのことを桜に当てはめてみると、嵐山に植えられる桜は管理も行き届き、また人が盛んに感嘆するので、その空気を桜の精が何らかの形で嗅ぎ取って、その自覚を持つのではないかと思う。一方そうではないどこにでもあるような桜は、やはりそれなりにしか見えない。で、筆者が気に入っていた線路沿いの桜がとても立派に見えたのは、どこにでもある桜ながら、まだ樹齢的に活力があったからとも言える。つまり、『汚れた血』の女優が出た映画で言えば、女性がごく一時的に持つ魔性に男が魅せられたのであって、その魔性がなくなった後では、男にはただのどこにでもいる平凡な女に見えたということだ。
話をもう少し続けると、筆者はそういうことをよく知りながらも、やはりどこにでもあるような平凡な美の中から自分だけがそれを見つけることを好む。あれがいい、これがいいと言い意見を、筆者は小さな頃からほとんどあまり信用しなかった。小さな頃は近所の兄さんたちの影響を受けたはずだが、その兄さんたちにしても、かなり判官びいきなところがあって、あまり有名でないものをかえって好んでいたように思う。だが、ここで注意したいのは、筆者がいいと思う対象は、個人的に密かに思うだけであるから、その対象が有名になったりもてはやされたりすることはないという事実だ。であるから、何も事情は変らず、有名なものはそのままずっと有名であるし、無名のものは無名ながら、どこかでそれに注目している人がごくわずかにある、だが、そうした人もやがては熱が冷めるという、ごく自然な法則は変わらない。そうしたあたりまえのことをよく理解しながらも、筆者には筆者個人の思い入れの出来るものがあるし、そうした個人の思い入れこそが実は最も大事なものではないかと思う。ああ、嵐山の桜はきれいだったなという経験もいいが、生活の中でたまたま出会った自分だけの気になるもの。それこそが自分の人生を後で振り返った時にいとおしくさせるものではないかと思う。ここでまた思い出すのが、ジョージ・ハリソンの「サムシング」という曲で、これをフランク・シナトラは世界で最も美しいラヴ・ソングと評した。この曲の歌詞の意味は、彼女には自分を魅せる何かかがあるということだ。この何か手応えのあるものこそ、先の『汚れた血』に出た女優が持っていたもの、あるいは筆者が感じた線路沿いの1本の桜ということになるが、その魔性的な魅力はやがてきれいさっぱり消えてしまうものであるとわかっていながらも、また消えてしまったことを実感しても、人はそういう存在がることを知り、また内心求め続けもする。いや、それどころか、そうした魅力に引き寄せられ続けることをこそ、人生の意味とさえ考えている。
さらにもう少し書く。フランク・シナトラが「サムシング」を美しいと思ったのは、かつて自分が愛した女性に確かにそのような何か表現しがたい魅力を感じたことをよく記憶するからであって、シナトラがその意見を発した時にそのような感情を抱くことの出来る女性がいたとは限らない。おそらくいなかったであろう。だが、女性にはそういう魔性的な魅力が確かにあるということを知っていて、それを真実と思うし、またそういう真実の存在することを確認出来る人間というものの不思議を思うことが人生冥利に尽きると考えていたはずで、そこに「マイ・ウェイ」を歌うシナトラの一種人生肯定主義が見えて筆者にはとても面白い。老いても人生をそのように肯定出来るというのもまた人間らしいし、そこに人間のあるべき姿を思うからだ。そのため、なぜあのような平凡な女にかつて魅せられたのかわからないと思いを吐露する男も、それはよくわかりながら、その女性がかつてはとても魅力的であったことをよく知り、また同じ感情を抱くことの出来る女性が現われるかもしれないことを思っているはずだ。そうした気持ちの変化があることは、ごく自然なことなのだ。輝かしかった存在が色褪せて見えることはある。これは何でもそうだ。だが、心優しい人は、色褪せてもなお、そこにかつての輝かしい姿の幻を見るだろう。それが滑稽なことはよくわかっていても、自分がかつてあれほど魅せられたものであるという思いを裏切ることは出来ない。だが、人間は生きている限り、前に進まねばならない。それはある意味では古いものから遠ざかることだ。そのため、かつて輝かしかったものを思いに留めることとは別に、現在最先端の生き生きとした何か魅力あるものに心を移そうとする。それも自然なことで、それはかつての輝かしいものを裏切ることにはならない。それはそれ、これはこれなのだ。そしてそういう考えは女性よりも男性に強いのかどうか、筆者は女ではないのではわからない。最先端の生き生きとした何かは、老いるほどに縁遠くなるだろうが、そうしたものがあることを否定していては、なおさら老いを証明することを忘れてはならない。だが、老いを証明しても、実際老いているのであれば仕方がないという意見もあるだろう。そこでまた思い出すのは線路沿いの桜だ。それはきっと老いているので、樹性も弱くなって来ているのだろう。そして『汚れた血』の女優も中年になって収まるところに収まった様子を男が見たので、なぜあれほどのぼせ上がったのだろうと思ったに違いない。そこには年齢相応の冷酷なとも言ってよい、隠しようのない事実がある。とはいえ、線路沿いの桜を今年初めて見て気に入った人はあるかも知れず、またそのかつての男は幻滅したかもしれないが、また別の男がその女を好きになることもあり得る。
アドリブで思いつくまま書いて来た。今日は3月14日に撮った4枚をまとめて掲げる。桜が開花する日が迫ったので、写す間隔は短くなっている。人間も成長期と安定期があって、成長期は変化が激しい。同じ長さの1日、1か月、1年であっても、生まれ立てと老いてからは差がある。いや、実際は同じなのかもしれないが、小さな頃は背丈もぐんぐん伸び、やはり成長が止まってからとは変化の速度が違う。駅前写真も同じなのだ。となれば嵐山駅前は成長期ということか。それを記録しておくというのは、筆者からすれば息子の成長写真を撮り続けたことと同じなのだろう。それは地元がそれなりにいとおしいものになったということか。ストレンジャーの筆者が自治会長を依頼されるということは、それなりに地元に溶け込んでいると思われたからでもあるだろう。それもこれも変化を受け留めるという思いがあってのことだ。そして、他人にはさっぱり面白くない駅前の変化であっても、筆者の目にはとまる線路沿いの無名の桜と同じことなのだ。そしてそれは無名のまま存在するから、別段何の問題もなく、ごく自然なことだ。このブログを訪れる人はそれなりに見るとして、やがて誰も記憶に留めない。そのあたりまえのことを自覚しながらもこうして掲載することに意味があるとすれば、それは駅前の変化を自分の人生の変化になぞらえ、そうした変化を新しいことの到来としてそれなりに楽しんでいることを証明するからだ。