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●嵐山駅前の変化、その17(広場)
しゃみが止まらない。雨の日は花粉が少ないが、寒い。そのためだ。さきほどアメリカのOさんからメールがあって、昨日書いたTHE RONDO HATTON REPORTの筆者の投稿は、日本語で載っているようだ。



それなら筆者が改めて載せるまでもなく、ともかくよかった。同じように、日本からザッパについて書く人が増えてくれればと思う。さて、撮り溜めた駅前写真、今日は2月16日の「その2」としての3枚だ。桜の林は1本がほとんど満開になっている。それは決めた撮影角度から外れるので、画像として紹介することが出来ないが、開花の様子はいずれ掲載する。一昨日、昨日と冷たい雨で、蕾はまた冬ごもりの気分になったか。もうすぐ嵐山の桜は満開になるので、阪急に乗って来る人も多いが、筆者のこのブログを見ている人が来ることはまずないだろう。またいたとしても、駅前はすでに筆者が掲げる写真とは様子が違っているので、駅前の様子と、筆者の写真の両方が結びつかないかもしれず、それは筆者の写真もそれなりに価値があることなる。そして、いずれ筆者は桜が満開の頃の駅前写真を掲げるし、それを見て、「ああ、花見に行った嵐山はこうだったな」と思う人もあるかもしれない。それもまた何らかの価値だ。それはいいとして、先日絵はがきのような写真のことを書いた。名所とその絵はがきの関係は、1対1でも、また絶対的なものでもないので、絵はがきのような写真にもそれなりの価値はある。だが、名所というものが、実際訪れてみるとあまり面白くないのと同じように、名所を写した絵はがき的写真も面白くない。それは誰もが名所と知っている場所を即座にわからせるために撮ったもので、撮影者の個性が見えにくいからだ。もっと言えば名所を写してなお今までの名所写真とは違う何かを写し込むことの出来る才能がないからだ。これは、名所を絵はがきのように写しても、それを今までの名所写真とは違うものに出来る可能性を示す。そうした例は、たとえば森村泰昌が有名な写真を元に、そこに写る人物を全部自分が成りきって写し直す行為を思えばよい。それは有名に便乗したパロディの仕事だが、そうした手法が鑑賞者にわかってしまうと、衝撃は減少するし、作者も同じことを繰り返すように、つまりマンネリとなる。
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 名所を利用しながら、絵はがき的ではない写真を撮るには、どういう方法があるか。いくらでも可能性はあるだろう。ただし、そうして撮った写真を誰もが面白いと思うかどうかは別だ。だが、自分が面白いと思い続けられる人だけが、そして、その面白いをよりそうであると絶えず考え続けられる人だけが、真に価値のある写真を撮るだろう。ベッヒャー夫妻の写真を見て、どこが芸術なのかさっぱりわからない素人写真家は多いだろうし、写真はいろいろで結局は自分が面白いと思うものを面白いと思う方法で撮るしかない。それでいいのだが、その面白いの向こうにその写真を撮った人の内面が見えるのが理想で、それが他に見られないものであればその面白いは真の価値に近づく。話を戻して、名所を撮った絵はがきのような写真に、撮った者の個性を反映させることは、相手が名所であるだけに貫禄負けしやすい。そこには長年の歴史の堆積がある。それをたまたま出かけて撮っても、歴史の重みの前で写真家の個性など吹っ飛ぶ。となればきわめて個人的な場所、つまり名所でも何でもない場所を撮ればいいだろうか。それは誰も知らない場所ということで、ほとんど誰も注目しないが、個性はより反映させることは出来る。そして、その個性を誰かが面白いと思ってくれるかどうかは、絵はがきのような写真より可能性が大きいように筆者は思う。だが、あまりブログを見ていないだけかもしれないが、そのような写真を多く撮って載せる人は稀ではないだろうか。きれいな風景や何かをきれいに写す。それはもう飽き飽きしている。だが、汚いものをきれいに写せという意味ではなく、またきれいなものを汚く写すことでもない。珍しくもないものを写しながら、そこに珍しいものが写っている。これが筆者の考える面白い写真で、そうした写真は読み取りを必要とし、また1点よりかは、組写真となって効果をより発揮する。その意味で筆者はベッヒャー夫妻の写真を非常に優れたものと思うし、同じような手法でその夫妻以上の仕事をすることは不可能とも思う。だが、人が違えば違う写真になるはずで、人とは違う思いを写真に込めようとすることが大事だ。
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 人と違う思いは、それを意識するしないにかかわらず写真に反映されるだろうか。なるべく多くの人にいい写真だとほめてもらいたいと考える素人カメラマンは、自分は他のカメラマンとは違う写真を撮ることが出来ると自惚れる、あるいは意気込むし、そうして撮った絵はがき的なきれいな写真は、多くの人にきれいだとほめられるだろう。素人カメラマン、プロのカメラマン、そして芸術的な写真を撮る人、これらはみな住み分けていて、そして交流がない。それを見定めながら、筆者は筆者なりに写真を撮る作業をそれなりに面白く思っている。その面白さとしてひとつ実感するのは、写真は現実の一部を切り取るが、そうして撮った写真を後日現場に持って行って、全く同じ角度で撮ろうとする時に味わう意外な難しだ。ファインダーの中に見える光景は、確かに目前の現実なのだが、ファインダーの中は別世界なのだ。写真にする段階で、現実はその撮影者にしたがって何かがいささか変化するのだ。そして、同じ場所で日を違えて同じように撮ると、同じでありながら別のものを、またそれが長く続くとすっかり別のものに変貌することを実感する。それは生きているものはすべてそうで、実は眼前の風景も生きているものであることを知る。ところで、桜咲く頃は入学式だ。筆者が小学校に入学した日、母は筆者を連れて写真館に行った。その写真を長年見ていなかったが、先月八尾に行ってその写真が貼られるアルバムを持って帰って来た。そして、写真館で撮った写真の筆者の満6歳の顔を見つめてみた。そこには今と同じでありながら別のものが、あるいは全く違ってしまった今とは別のものが写っているかもしれない。その52年前の写真を陰影を強調して加工した。それを右欄の自己紹介画像に掲げる。3歳の子に100歳の魂があると言うが、全くそのとおりで、筆者はこの写真を撮ってもらった時のことをよく覚えており、また当時と何も変わっていない自分を思う。写真を撮る行為は過去を向いている。であるから、筆者はもうそろそろ自分が長年思っている写真を撮りたいなと思う。だが、一方ではそれは撮らずとも見えており、それで充分という思いがある。人に見せて理解してもらったところで、もうそれを喜ぶ年齢でもないし、人は住み分け、本来交流がない存在であることもよく知っている。そういう思いが6歳の筆者の顔にすでに出ている。
●嵐山駅前の変化、その17(広場)_d0053294_0111880.jpg

by uuuzen | 2010-03-25 00:17 | ●駅前の変化
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