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●嵐山駅前の変化、その13(広場)
然としてそこにあることを示すというより、以前そこにあったものを写すのが写真だ。ロラン・バルトが晩年の著作『明るい部屋』で書いていたことをもじって言えばそうなる。
筆者が掲げる嵐山駅前の写真もそのとおりだが、写真によって依然と以前の割合が違う。たとえば今日掲げる2月4日の駅前の風景は、遠くの山を除いて数十年経てば全く変化して全部なくなっているだろう。写っているものどれひとつとして依然はない。全部臨時の存在で、いつかは以前にあったものになる。駅舎がビルになるなどしてすっかり変わっても、それは装いを改めただけで、駅舎であることは依然として同じという人もあろうが、歴史的長さで見れば電車もいつまでもあるかどうかわからず、駅舎そのものがなくなる世の中が来ないとも限らない。依然としてそこにあるのは山や川くらいなものだ。そう思えば、阪急嵐山駅は見事に理想な場所に改札口が造られた。駅舎を出ると真正面に小倉山、その右遠くに愛宕山、左には嵐山が並ぶ。だが、この光景は植え込みにあった背の高い松などを全部切って更地にしたために見えるようになったもので、その意味からは今回の徹底した駅前改装は本来の嵐山駅の意向に戻ったと言えるかもしれない。1月17日に初めてその角度から撮った特、駅前の円形の上込み中央に立つ街灯を中心にし、その直立した線が小倉山を二分するように画面を決めた。何らかの規則を作っておかないと、次に写す時に角度が違ってしまうからだ。とはいえ、実際は小倉山を二分するよりもっと正確な同じ角度で撮影出来るポイントを探した。ところが、昨日書いたように、物理的に何かが邪魔をしてそうも行かないことがあった。それは写真を見比べるとわかると思う。
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 今日掲げる2月4日撮影の3枚も、依然としてあるものではなく、以前にあったものだ。筆者は以前にあったものを月遅れでブログに載せることがどうやら好きらしい。京阪神に住んでいる人が阪急電鉄を利用して今年の嵐山の桜を見に来た時、駅前はすでに筆者が掲げる写真とはすっかり違っている。そして、その時にはまた筆者は先に進んで何かを記録している。と、そんなことを書く時、60年代半ばヒットしたデイヴ・クラーク・ファイヴの「Catch if you can」を思い出す。それはいいとして、少し写真を説明しておくと、昨日掲げた1枚の左端に細長く写っているのは付近の観光案内地図で、それが下の写真の中央やや左に写っている。そしてその影が円形の植え込みであった土の上に落ちている。日時計のように、この角度から時間帯が想像出来るが、昼前だ。また、天気がよいので植え込み中央の街灯のてっぺんに鳩が1羽とまっているが、これは人慣れして近寄っても逃げない。レンタサイクルの看板の上がるプレハブ造りの建物のずっと奥、茶色の5階建ては数年前に出来たマンションで、一部は他府県の人が別荘代わりに購入したとも聞いている。価格帯は忘れたが、高級な部類に入るものだ。筆者は会長として、よくそのマンションの1階内部に入って郵便受けに配りものを投函するが、監視カメラがあり、また玄関ホールより先には入ることは出来ない。子どものいる家庭のみが自治会に所属しているが、子どもが成長すればどうなることやらだ。それはともかく、このマンションは渡月橋の上から下流右岸を眺めた時、まともに見える。法律を守っているとはいえ、嵐山の景観からすればない方が好ましい。駅前に出来るホテルは、和風のビルになる。そうした配慮がマンションにあってもよいが、利潤追求の思想はそんなことはおかまいなしだ。だが、そうしたマンションもいずれ寿命が来ると別のものに建て代わるし、その時は法律も変わってもっと和風のものになっているかもしれない。歴史的時間で見れば、依然もまた以前になる。
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 昨日の写真もそうだが、今日のものにも人の後ろ姿が写っている。これは狙ったのではない。狙ったものではないから、自然さが出ていて、われながら写真の細部に見入ってしまう。昨日書いた「お気に入り」に登録したある人の写真中心のブログは、人が写らないことをかなり気にしてシャッター・チャンスを待っている。そのために掲載される写真は絵はがきのようになる。人が写ってはまずいというのは、案外個人情報保護の観点からそうした写真を掲載することで何らかのトラブルになると予想するからでもあろうが、点景して写る場合は問題ではないし、またそうした人の存在を含む写真の方が情報量が多くなって記録写真の価値はうんとあがる。写っている人の服装や髪型が年代を如実に反映するからだが、そうした要素はたとえば何百年も依然としてその場所に立っている寺社の建物に比べて芸術性が劣り、そういうものが混ざることでせっかくの写真に品がなくなると思うのもひとつの立場、態度だが、それが絵はがき的な面白味の欠ける写真になってしまうことを自覚した方がいい。あるいは撮影者の性質がそういう写真を本能的に求めるのかもしれない。簡単に言えば人間嫌いだ。そういう素人カメラマンは案外多いかもしれない。筆者は人間を撮った写真が一番面白いと思うが、それは花や建物を撮る何百倍ものエネルギー、また手間がかかり、素人では難しい。人は人に接する時に最もエネルギーを要し、そこにお互いバリアが生じやすく、ごく自然な写真を撮ろうとするには、ある程度の年齢を重ねて人間を知る必要がある。それに、どんな人間を見てもそれなりに面白い人と思えるほどの器量が必要だ。たいていの人はそうはならず、年を重ねるごとに人間嫌いに傾く。そのため、定年した素人カメラマンの撮る写真はみな下手な絵はがきのようなものになるのかもしれない。筆者がそうした写真を好まないのは、そこに個人の孤独が色濃く定着しているのを感じるからかもしれない。今思い出したが、20年ほど前だろうか、ある人が広重の東海道五十三次の版画をペン画で描き直した作品の個展が京都であった。行ってはいないが、新聞でその紹介を知った。ただの模写ではなく、人物を全部消して風景だけ模写したものだ。確かに広重のその作品はたいてい人物が点景になっているので、人物を省いてもあまり変化がないかもしれないと思うが、本当はそうではない。人物を省けばまるで絵にならないものが目立つ。風景よりもむしろ人物に目が行くほどだ。新聞に掲載された作品写真は、見るに絶えない孤独感、寂寥感があった。いや、こう書けば何か特別な芸術で価値がるあるように思われるが、辛辣に言えば見るに絶えない、また作る意味が何も感じられないものであった。パロディのはやった時代であるから、そうした発想は別段珍しくなかったが、筆者なら人物を逆に増やして描く、あるいは現代の車や建物などを混在させて、賑やかなものに描き直した。そして、そのアイデアをすでに実行して有名になっているイラストレーターがいる。何でも思えばすぐに取りかからないと、すぐに同じ考えをしてそれを作品化する者が現われる。それはそれで自分がやる手間が省けていいのだが。
●嵐山駅前の変化、その13(広場)_d0053294_1211624.jpg

by uuuzen | 2010-03-19 01:27 | ●駅前の変化
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