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●日と月との間
礼ではあるが、年賀状でお互いの生存を確認するというのもいい。今年はどうにか出すのが去年より数日早かったので元旦に届くだろう。



●日と月との間_d0053294_0281854.jpg12年前の寅年のデザインを記憶しているので、今年はそれと同じものにしてやろうかと考えながら、そのはがきを引っ張り出すのが面倒で、結局新たに考えた。ここ数年は左右対照の切り絵で作り、それをスキャンして図案にしているが、今年は以前に作った切り絵を少し改変した。3、4年前から切り絵を採用し、しかも当初はプリント・ゴッコで刷っていたものをパソコンで印刷するようになった。精度が今ひとつなのが不思議であったが、解像度を350に上げる必要のあることを去年知って、今年もそうしたが、やはりきれいに印刷出来る。プリント・ゴッコでは、買い置きして2、3年経ったスクリーンはうまく感光しないことがわかり、せっかく10年分ほどはあったのに、それを使えなくなった。そのためにパソコンで印刷するようになったが、表側の自分の住所は相変わらずプリント・ゴッコで刷っている。その方がパソコンより20倍ほど早いからだ。また、裏側がパソコン印刷だけでは面白くないので、今回は上部の余白にハンコを押したが、下部の余白にちょっとした言葉を手書きで添えることもした。そして相手の宛名は手書きであるから、筆者の年賀状はパソンコ、プリント・ゴッコ、ハンコ、手書きの4とおりの方法で仕上がっていて、はなはだ手間がかかる。それももう済んだのでほっとし、さきほど思い切って12年前、つまり1998年の寅年の賀状を探してみた。ここ数年分は保存していないが、70年代後半辺りから毎年1枚だけ手元に置いていたはずで、運よく数分探して出て来た。筆者の住所を消したうえでその画像を掲げておくが、プリント・ゴッコを使っての焦茶とカーキ色の2色刷りで、タイトルとして「キティちゃん松竹梅的トラ」と書いてある。虎の正面顔が梅花の輪郭形で、髭が竹の葉、そして少々わかりにくいかもしれないが、頭の縞模様が松葉模様になっている。画面上端の赤のハンコ「あけましておめでとうございます」は今年も使用した。こうしたハンコはひとつあると一生使えるが、表側の筆者の住所もプリント・ゴッコで刷るようになってもう10年近くなる。そしてその文字はずっと同じものを使用しているが、全部刷った後で感光スクリーン上の絵具を揮発油で拭き取ると、そのまままた2、3年は使用出来る。やがて穴が大きくなって使えなくなると、また新たに感光させて用意することになるが、その際、筆者はあえて以前の文字をそのまま使用している。最初に作ったものが文字がうまく書けているからという理由からではなく、新たに書くのが面倒であるし、同じものを長く使い続けるのもいいかと思ってのことだ。と、こうして書いていても筆者の賀状を受け取らない人は何のことかわからないかもしれないし、興味もないだろう。
 2009年がどういう年であったか思うと、ほぼ何の変哲もなかった。それでいいのだろう。そのように言ったのは友人Nだ。筆者のような年齢になると、変わったこととは大体悪いことだ。何の変哲もないと言いながら、実は知り合って40年近いNが亡くなった。つい10日ほど前、7月28日に旅先の静岡でひとりで死んだことを知った。死因など詳細は全くわからない。Nは飲み友だちで、学生時代の1年先輩だが、3、4年前までは毎月1回程度は大阪を中心に飲んだ。それも必ず3軒ほどはしごした。こうして書き始めるとあまりの思い出の多さにわれながらたじろぐが、簡単に言えばNは、身内に非常に縁がうすく、極端な人間嫌いで、容易に人を信用しなかった。そして、そういう中で筆者だけには心を許していたと言ってよいが、数年前から設計事務所の仕事があまり思わしくなくなり、不機嫌さが増した。Nも筆者もいくら飲んでも酔わないたちで、しかも飲めば陽気になるタイプだが、飲んで醜態を晒す者とは一切飲まなかった。飲むのであれば楽しくやりたいというのが誰しも本音で、1か月に1、2回、少ない時は3、4か月に1回ほど筆者がNのもとを訪れるのを、Nは常に心待ちにしていた。仕事が少なくなったNが誰に対しても以前より不機嫌になることは理解出来たが、たまにしか会わない筆者は、そのたまにしか会えないことを口実に、その不機嫌さに当てられることを嫌って、Nと少し距離を置いたのが3、4年前のことだ。その頃筆者は本格的に打ち込む必要のある仕事が出来たからだが、一番大きな理由はNと飲んでもあまり面白くなくなったからだ。Nは決して連絡して来ることはなく、筆者が連絡しなければそれは交際が途絶えたも同然であったが、ともかくしばらくの間はそれでもいいと筆者は考えた。そして、10日ほど前にNの妻から喪中はがきが来てNの死を知った。驚いたのは確かだが、どこかにやはりという気持ちもあった。というのは、5、6年前からNは飲むたびに笑顔でではあるが、自分の死についてよく話題にした。Nがそういう言葉を口にするのは、体調がよほど思わしくなかったからだろうが、それと同時に仕事が減って将来に不安もあったからだ。Nは景気のよい時は年収が1000万を軽く越えていたにもかかわらず、年金を一切払ったことがなかった。それを思えば年金を受け取る年齢になる前に亡くなったのは見事な策略だったと言うほかない。収入が多い時は、「人生がとにかく楽しい」とよく言っていたが、収入が多いことはそれだけ仕事が忙しいことであり、そのストレスを発散するために好きな酒を飲む機会が多くなった。そしてそのことが体を蝕んだ。筆者と梅田や難波で飲む時も、必ずまずトイレに行ってインシュリンを打ってからというありさまで、糖尿病悪化の心配が常にあった。それでも飲めばそんな話はせずに、お互い全くのヨタ話ばかりであった。またNは昔から一度も筆者に支払わせたことがないほど気前がよかったが、それは筆者の経済状態をよく知っていることとは別に、後輩に奢る楽しみを味わうことと、筆者がNの悩みをいつも聞く役割をしていたからだ。一方の筆者は自分の関心事の10分の1ほどもNには話さなかった。Nも映画や本、音楽を好んだが、筆者とはそれらの内容はさっぱり合致せず、Nと飲んでも筆者には情報や知識として得るものはごく少なかった。だが、それを言えばNも同じであったろう。そんなことはどうでもよく、古くから気心の知れた間柄、お互い気を張らずにつまらない話に時間を過ごすのがお互い楽しかったのだ。
 Nは10代後半に一時ドラムを習ったことがあった。そしてNに1年遅れて筆者は同じ設計会社に入ったが、そこには軽音楽(今で言うロック)クラブが出来たばかりで、Nはドラムスを担当、筆者はエレキ・ギターと歌を担当して毎週決まった夜に梅田の分室の2階で練習を重ねたものだ。もちろんNはギターも上手で歌えもしたが、筆者に花を持たせる恰好で、自分は背後でどんと控えるのを好んだ。その頃パーティでの演奏写真があるが、Nはそれと同じものを近年まで所有していたろうか。Nの最も古い写真として思い出すのは、上半身裸でフォーク・ギターを抱えた笑顔がうつぶせに写っている白黒のものだ。誰が撮影したのか知らないが、同棲していた女性だろうか。家庭愛に恵まれなかったNは10代後半で同棲をした。とはいえ、その写真に見える狭い窓のない部屋は大阪西成の安アパートで、筆者は遠い昔に2、3度最終電車に間に合わずに泊まったことがあるが、とても女性と同棲出来る場所ではない。そう言えば昔のNは女性と寝る時、場所の確保に困るとよく言っていた。20代前半の頃ならばお金に乏しく、とてもラブホテルばかりに行っておれない。実家を早くから出たNは西成のその安アパートの1室からスタートして、結婚後は1戸建ちの家をローンで購入し、確か8年ほどで完済したはずで、その猛烈な働きぶりがよくわかる。その1戸建ちの家に先日行ったが、今は娘が住んでいて、去年写したNの笑顔のスナップ写真がテーブルの上に遺影代わりに置いてあった。それは筆者がよく知る笑顔で、まるで筆者に話しかけて来る気がして、よほど娘に言ってその写真を記念にもらって帰ろうと思ったが、記憶にしっかりと留めたので写真がなくてもいいと思い直した。それにNは常々、自分が死んだら葬式、墓など一切無用と言っていたらしく、思い出となるような何かを残すことを嫌った。だが、筆者がNの思い出となる何物を持たないかと言えばそうではない。筆者が毎日使うWINDOW95のパソコンはNからもらったもので、それはNが仕事で使うために最初に買ったパソコンであった。デジカメももらった。98年頃のキャノンの製品で、大きくて重く、またすぐに電池切れするが、筆者はどちらも壊れるまで使い続けるつもりでいる。とても廃品に出す気にはなれない。だが、Nがそのことを知れば、物持ちのよさを笑って、すぐにでも最新のパソコンやデジカメを買ってくれたであろう。Nは新もん好きで、電化製品の新型が出るとすぐにほしがったし、実際すぐに買った。筆者はその反対に、古くても平気で、むしろ古いものを大事にいつまでも使っていることを密かに自慢したいタイプだ。それはいいとして、西成のアパートがどこにあったのか、Nに正確な場所を訊ねておけばよかった。そのほかにもNと昔よく行ったスナックや喫茶店など、とっくにそれらの店の大半はなくなったに違いないが、場所だけでも正確に聞いておけば、散歩好きの筆者は何かのついでにまたそこに行くことが出来たのにと思う。だが、Nが最初に住んだその西成のアパートに向かう道のりは記憶にある。それは30数年前のことだが、その道のりは当時とほとんど変わっていないはずだ。実はNの死を知る前、大阪市立美術館に『道教の美術展』を見に行った時、家内を連れてその付近に足を伸ばそうと考えた。それにはまず、美術館の正面前の大きな階段を降りて、通天閣、つまり南に向かって歩を進める。そしてNと何度か飲んだことのあるジャンジャン横丁に入り、そこを通り抜ける。すると大きなバス通りに出るが、それを越えるとまたジャンジャン横丁と同じほどの狭くてうす暗い商店街が一直線に続いているのが見える。そこを南下するのだが、すでに夕暮れが深く、空腹でもあったので、大通りから踵を返して帰路に着いた。
 筆者がNと最初にジャンジャン横丁を抜けて穴蔵のようなアパートの1室に向かったのは、季節のよい頃のことだ。また昼過ぎであったが、その時筆者はジャンジャン横丁を通るのが初めてで、また西成地区に踏み入れるのも初めてであった。西成は全国的に有名であるから説明の必要はないと思うが、ジャンジャン横丁から大通りを横断してさらに500メートルほど続く商店街を抜けると、その付近は飛田新地と言って、昔遊廓のあったところだ。Nはその飛田新地と書かれた看板を指し示してくれたが、筆者は有名なその新地がここであったのかと反応した。その後すぐにベンガラ色の日本家屋の塀が続いた道を歩いたと記憶するが、それを越えて間もない一角にNのアパートはあった。だが、もう30数年前のことだ。そのベンガラ色の特徴ある塀はなくなっているだろう。地図で調べると、その付近は天王寺区、その南の阿倍野区、天王寺区の西隣の浪速区、その南、つまり阿倍野区の西の西成区という、4つの区が接している。30数年前にNと筆者は商店街を抜けてアーケードが途切れた地点に確かに立ったが、飛田地区はその地点から左手で、Nのアパートは右手つまり西側方面の物騒な西成地区にあった。Nが飛田新地の看板を無言で示してくれた時の表情をよく記憶しているが、それは、うぶな筆者にこういう場所には連れて来たくはないといった一種困惑した顔であった。Nは飲むのは大好きだが、女好きではなかったので、なおさら筆者にとって初めての地である飛田新地の案内をしてくれなかったのであろう。大阪には新地と呼ばれる場所はいくつかあって、筆者はそういうひとつの近辺に住んでいたので、飛田新地と聞いても別段何とも思わなかったが、Nは明らかにそこには何の興味もないというより、むしろ拒否の風であった。さて、また大阪市立美術館に家内と行ったのが『小野竹喬展』だ。それを見た後、時間が以前よりも早かったこともあって、今度こそ筆者は家内を連れてジャンジャン横丁を通過してさらに南下し、かつてNと歩いた場所を辿ってみようとした。だが、筆者はNのアパートの位置はさっぱり記憶にないし、おそらくそうした建物はなくなっていると思い、2、3年前から一度見ておこうと思っていた「鯛よし百番」というレトロな建物で有名な料理屋を目指した。場所は地図を下調べして頭に入っている。ジャンジャン横丁から南に続く古い商店街を越えたところに、記憶どおりに飛田新地があった。「鯛よし百番」はそこから東へ200メートルほどのところにあるはずだが、何しろ初めての道で、辺りを興味深げに見ながら歩いていると、「鯛よし百番」にそっくりな構えの家があった。その正面を通り過ぎる時、筆者は仰天した。寒い日であるのに、玄関は開けっ放しで、中には毛布を膝に懐いた若い女性がひとりと、その手前に太った年配の女が座って、ともにこっちを向いていた。若い女は下からライトが当てられ、顔が明るく輝くあまり、一瞬筆者は妖精の人形かと思ったが、女は筆者の顔に焦点を合わせて少し困ったような笑顔を作った。後ろをついて来る家内も同じようにびっくりしたようで、女はおそらく筆者が女性を連れていたことに驚いたのだ。その通りには同じような店が数十軒も連なり、それと平行して東西に走る2、3本の道沿いにも同じ規格の同じ大きさの白い電光看板を掲げる店がずらりと勢揃いしている。ざっと見積もって百軒はあるだろう。それが飛田新地の実態であったのだ。「鯛よし百番」に至るまでにそうした店を数十は通り過ぎる必要があるが、まだ時間が5時少々過ぎと早いためか、玄関を開けている店は少なかった。そして「鯛よし百番」に着くと、予約客が10人ほど待っていたが、ひととおり家屋の体裁を外から眺めた後、また来た道を戻ることにしたが、さきほどの女性をもう一度見る勇気がなく、同じ道をたどらなかった。だが、店は違えど、同じように玄関を開けた店が数軒あって、どれも若い女性がひとりでストーヴと毛布で暖を取りながらこっちを向いて座っていた。中にはごく真面目そうで賢そうな、つまり筆者好みの女性もいたが、大阪にそういう場所が存在することにかなり驚いた。Nは飛田新地がそういう場所であることを言ってくれなかったが、Nは商売女を嫌悪していたから、おそらく一度そうした通りに足を踏み入れた後、2度と歩くことはなかったのだろう。
 帰宅して飛田新地についてネットで調べると、すぐに興味深いブログに出会った。飛田新地に通い続けた男性の日記で、投稿が途切れてもう7、8年になるが、閲覧回数からしてかなり人気のあるブログだ。その日記を2、3日適当に拾い読みした。なかなか文章がうまく、また人柄も優しそうで好感が持てるが、面白いと思った後にさびしい気分に襲われる。飛田新地を訪れる男性はお金で女性との時間を持つわけで、女性は商売の道具という身分だ。つまり、お金でかなり言いなりになる。男は気に入った女性が座っているのを見ると、さっと中に入って、横にいる年配の女性と時間と金額を交渉し、若い女性と2階に上がって後は自由に時間を過ごすのだが、1時間ほどで5、6万円を支払う。それが高いか安いかは別として、何だか物悲しいものが漂う。Nに言わせれば、お金で誰とでも寝るような女は不潔ということだが、筆者はそこまで極端に思わないまでも、玄関を開けっ放しにしてちょこんと座り、自分に男の目が止まるのをひたすら待つ女性の気分になってみると、よほど何かに無神経にならなくてはそんなことが出来るはずがないと思えるし、そこに殺伐さや悲哀を見てしまう。それでもいろんな女と交渉を持ちたいと思う男にとってはその場所は天国に思えるだろう。そして、中にはセックス好きで、男なら誰でもかまわないと割り切れる女性もあるだろうが、それはお金がもらえるという理由が大きいはずで、性を売り買いすることに生理的に受けつけない人もまた多い。法律の抜け穴のためか、あるいは必要悪と黙認されているのか、ともかく飛田新地は残り、今後も存続するだろうが、帰宅した後また地図を確認すると、「鯛よし百番」に行くには、ジャンジャン横丁を南下するのではなく、JRの天王寺駅から南西に行く方法があることに気づいた。その道は斜めに下がる坂道で、途中に大きな市立病院が建つ。この病院に10年ほど前の真冬、ある中年男性の見舞いに行ったことが一度ある。見舞い後すぐにその人は世を去ったが、暖かい病室から外を見下ろすと、辺り一帯が再開発中で、地面はひっくり返され、杭打ち機やクレーン、ダンプやユンボがたくさん見えていた。再開発が始まる10年ほど前に筆者は一度だけその坂を天王寺駅からずっと下ったことがある。いかにも下町然とした様子で、まだ戦前の面影が強く残っていたと言ってよい。今にして思えば、その坂を降り切って、大きな通りを越えた地区が飛田新地で、街の構造としてそのことがよく理解出来る。再開発された区域は真新しくなって味気ないが、その点飛田地区は昔のままで、この調子で100年も経てば歴史的保存地区となるかもしれない。何でも再開発で壊すのはどうかと思う。それはさておき、病室には男性の世話をする30代の見知らぬ女性がいた。その男性の妻でも娘でもなく、飲み屋辺りで知り合ったのだが、とにかく大金持ちで北新地で豪勢に飲み続けた人であるだけに、そのような女性に全く不自由はなかった。そして、その女性の雰囲気は、飛田新地で座っているような女性にありがちであるはずの独特の翳りがあった。その時しか会っていないが、筆者はその病院の随所に掛かっていた飛鳥辺りを撮影したなかなかいい数々の写真と同じほどに、彼女の雰囲気をよく覚えている。
 北新地が出たのでもう少し書く。筆者がNの西成のアパートに2、3度泊まった頃、会社の3人の上司に連れられて北新地のクラブに行ったことがある。筆者は20代前半で一番若かったので、一番若い女性がついて相手をしてくれた。うす暗い広間だったが、顔や衣装がはっきりと見えるほどに近く座った。どの女性も見たことのない洗練された美しさがあった。特に筆者の相手をした女性は、びっくりするほどの美人ではないが、長身でスタイルがよく、またどんな話題でも即座に反応出来るほどに頭がいいことはすぐにわかり、魅力をふんだんに持ち合わせていることを感じた。「いつも会社の接待客ばかりでつまらないですよ。もっと若い人が遊びに来てくれるといいんですがね」などとさりげない笑顔で話してくれたが、4人にそれぞれ違う女性がついたため、筆者はその女性とばかり話をし、20分ほどで話題が尽きた。ちょうどその時、店を引き上げることになったが、最も高齢の次長が支払った。15万円を現金で払ったのを見たが、財布の中にはまだお札が同じほどあった。次長になるといつも現金をそれほど持ち歩くのかと思ったものだ。70年代半ば、小ビール数本とおつまみ、それに4人の女性との話に対して15万円が高いのか安いのか知らないが、あれほどの女性を揃えて客に気分よく飲ませるのであれば、その程度は当然と思える。そして思い出すのはつい先日、関西では有名な芸人のKが昔の友人とガールズ・バーという、女性がカウンターの向こうで酒を出してくれる店で4人で飲み、25万円の支払いが高いと言って店長に暴力を振るって怪我させた事件だ。25万円が高いのかどうかは、店の様子を知らず、またどれほどの量を飲んだかも知らないので即断出来ないが、金回りが近年よくなってベンツに乗るようになっていたKからすれば決して支払えない額ではない。Kはかつて貧乏であったことを売りにしている芸人だが、有名かつ金持ちの芸能人になったのであれば、それに見合った額を支払うのは当然ではないか。そして、同じ支払うのであれば気前よくやらねばならない。気前よくすれば自分も相手も気分がよいし、それでまたいい評判が立つ。芸人の稼ぎなど、どうせ浮いた金と同じと割り切れば、若い女性がにこにこ顔で楽しませてくれる店で25万円程度を支払うのは何でもないだろう。Kはかつて食うにも困るほど貧乏であったのに、今では豪勢な暮らしが出来るほど世間から有名にならせてもらった。それはKの実力でもあるが、世間の目でもある。そして世間を楽しませることが最大の目的である芸人がケチなことを言っているようでは全く洒落にならないし粋でもない。Kがほとぼりが冷めた頃にまたTVを賑わすことになるかどうかはわからない。だが、もしふたたび登場出来た時、もう昔の貧乏ネタはやめにした方がよい。現実にはKがそうであった以上に貧しい人は大阪の西成、あるいは飛田新地にはもっとたくさんいる。そうした人々からも偉いやっちゃと言われるには、ベンツに乗る一方で金払いのよさも示すべきだ。25万円が仮にぼったくりであったとしてもだ。ぼったくられてもいいと思う者だけがそういう店に行けばいい。ああ、Nがいればそんなヨタ話でまた飲んだだろうな。だが、Nよ。筆者は悲しまないぞ。面白くない話をして飲んだことはなかったからな。それにNはうまいこと死んだものだ。そんな見事な死に方を筆者が出来るかどうか。
by uuuzen | 2010-01-01 00:28 | ●新・嵐山だより
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