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●『民藝と仏教美術-柳宗悦のこころうた-』
仙が咲いたと先日のTVニュースが伝えたが、水仙と聞くと1月の花に推薦したくなる。



●『民藝と仏教美術-柳宗悦のこころうた-』_d0053294_1311757.jpg1960年代前半、筆者は小学生で、まだ切手収集を始めていなかったが、12種の花シリーズ切手が毎月発売され、その1月の花が紫の地色に水仙を描いたデザインであったからだ。そして、その紫と白の対比がとても美しいものに見えた。以前書いたことがあるが、日本の切手が本当にデザイン的に素晴らしかったのは1950年代までで、それ以降は色は派手になったが、美しく感じない。民営化した郵便が盛んに発行にするふるさと切手を初めとした特殊切手を、筆者はもう2、3年前から買わなくなった。だが、自分のデザインで切手を作ることが出来るサービスがある。これは最低枚数を注文しても数十万円ほどかかるが、経済的余裕があれば(永遠にないが)それに一度挑戦してみたいと思っている。それはいいとして、30年数年前、交際していた家内がどういう理由からか、水仙を描いてほしいと言ったことがある。花屋で水仙を買って来て、画用紙に絵具で写実的に描いて手わたしたが、それがその後どうなったか、一緒に暮らすようになってから今に至るまで訊いた試しがない。それもまたいいとして、今日取り上げる展覧会を見た日、美術館のすぐ近くの骨董店の店先に水仙の球根が売られていた。庭に咲くものを老いた主人が掘り起こして売るもので、状態はよくないが、6個で200円であったので帰りに買った。ビニール袋に詰めたものが1袋あったので、それを店内に入って主人に手わたすと、少しおまけしてやると言う。それで表に出て1、2個余裕に詰めてくれた。だが、後日植える段になって、8個のうち2個は虫食いがひどくてもはや球根の骨といった状態で、発芽しないのははっきりとしていた。主人は水仙の隣にあるもうひとつの球根も買えとしつこかった。開花時の小さな写真を印刷した用紙が添えてあったが、筆者が散歩中にたまに見かけるクロッカスに似た白い小さな花で、好みではないので、買うのを渋っていると、数個で300円するのを100円負けるからとなお食い下がる。その時別の初老の男性客が興味深げにその球根を見ていて、主人が負けるという言葉を聞いてすぐに買った。それにつられて筆者も買ったが、銀杏の実ほどしかなく、それで無事花が咲くのかどうか、ともかく帰宅して数日後に庭の一角を掘り起こして、小石を取り除き、消石灰を蒔いて全部植えた。すると1週間経った頃、にゅっとニラのような葉が伸びて来て、今は花の蕾がちらほら出来ている。1月に咲いてくれると言うことなしだ。生まれて初めての水仙植えだが、放ったらかしにしても毎年花が咲くようで筆者向きだ。さて、前置きが長くなったが、この展覧会は別段見たいほどでもなかったが、紅葉の天王山を見るのもいいかと思って、会期の終了日10月25日に、いつものように家内と出かけた。それから2か月経つので記憶がかなりうすれているが、覚えていることを書けばいい。
●『民藝と仏教美術-柳宗悦のこころうた-』_d0053294_1314113.jpg 館内はかなり人が多かった。天気のよい日曜日であるのでそれも当然だ。ほとんどは他府県から来た人のような感じだが、実際この大山崎山荘美術館は一度は見ておく価値のある自然環境に建つ。また前置き的話になるが、館内でひとりの20代後半とおぼしき女性に目が行った。それは家内も同じで、ふたりでなかなかいい感じの女性ということで意見が一致した。顔をよく覚えているので、絵に描くことが出来そうだが、灰色無地のタイトめのスカートに、黄、白などかわいい手縫いのアルファベット模様を前面にあしらった紫色のセーターだった。紫は青味でも、赤味でもなく、ちょうど中間の品のよい色合いだ。髪はショートカットで、色白肌、背は170センチより少し足りない程度。やや鷲鼻だが、西洋人のように高い。美人と言うよりも一度見れば忘れられない個性的な顔で、とても賢く優しい印象がある。つまり、女性としては申し分のないタイプだ。その女性は、熱心と言うほどでもないが、たまに作品の前でごく小さな黒表紙の名刺サイズのメモ帳に鉛筆を走らせていた。筆者らと同じ時間帯に館内に入ったので、どうしてもどの部屋でも彼女の横顔や後ろ姿を何度も見ることになったが、単なる美術愛好家ではなく、美術館に勤務しているような専門家に見えた。帰りがけに筆者らが水仙を買っている時、彼女は追い越して下山して行った。そして今思えば、彼女の全体の色合いは最初に書いた花シリーズ切手の水仙に似ている。筆者が見知らぬ女性の姿の記憶を留めることは数年に1度あるかないかで、決して筆者の好みの女性でもないが、妙に印象深く、出来るならば家内ともども喫茶店で少し話をしたいと思ったほどだ。もちろんそんなことは家内に言わなかったが。その女性を見たことはひとつの出会いとでも言うべきことで、美術作品の場合にもたまに同じようなことが生ずる。「たまに」と書くのは、多くの美しい作品があるとしても、その中で本当に長く心に留まり続け、そして思い起こすたびに何とも心が豊かな思いになれる作品はごく稀であるからだ。そんな幸福な出会いをどこかで求めながら筆者は展覧会によく通うが、目が変に慣れてしまって、なかなか驚くような出会いはない。柳宗悦はどうだったのであろう。沖縄や朝鮮の民藝品、大津絵や木喰上人、次から次へとまだ評価の定まらぬ、それでいて美しいとしか言いようのないものを発見して行った柳は、女性の移ろいやすい美よりも、そのまま凝固して変化しないモノに魅せられ、「民藝」という新しい言葉を生み出した。その柳の評価は、個人的には筆者が知った10代の頃と今ではさほど大きな変化があったとは思えないが、たとえば大山崎山荘は民藝をひとつの売りにしていることもあって、柳の名前を目にする機会は、柳と深く関係した工芸作家は多いためと展覧会が各地で増加したことによって、この20年の間に確実に増えた。たとえば11月は京都で『円空と木喰』展があったが、またかという気がして見に行かなかった。今回の特別展はアサヒビール創業120周年記念と銘打つが、同時期に柳の生誕120年の記念展が東京の日本民藝館で開催されていた。生誕120年という区切りであるにもかかわらず、あまり大きな催しがなかったが、それはもっと区切りのよい生誕100年の時も同じであった。手元に「柳宗悦の眼」と題する生誕百年記念のチラシがある。それを入手したのは、万博公園の日本民藝館で、当時同館でも柳の生誕百年を祝う展覧会が開催され、筆者はそれを見たが、通常展と大差なく、かなり物足りなく思い、またなぜ柳の人気がこうも低いのか不思議でもあった。その後、三重県立美術館が開館15周年記念として、1997年に大規模な『柳宗悦展』を開催し、その図録は万博の民藝館で4000円ほどで今も売られているはずだが、柳の展覧会としてはそれが最も大きなものだ。
●『民藝と仏教美術-柳宗悦のこころうた-』_d0053294_1321058.jpg さて、大山崎山荘美術館は山荘のほかに地下にコンクリートで新たに作った展示会場があり、そこでは通常はモネの睡蓮のいくつかの作品がかかっているが、今回もそれは同じであった。その会場を含めると壁面は少なくないが、山荘のみであると、展示作品数はかなり限られる。もらって来た展示作品一覧表によると、今回は60点ほどだ。その程度が本当はちょうどいい。出品作の5分の1が東京の民藝館、半分が山荘美術館、残りが個人蔵や大津市歴史博物館の所蔵で、目玉的作品はチラシに大きく印刷される木喰の「秋葉大権現像」だ。これは火炎が赤で着色されている珍しいものだが、大権現が横顔を見せている点もそう言えるが、なぜ一見木喰らしからぬ横顔を彫ったかと言えば、大権現の口が烏の口のように尖っているからで、それを示すためには前向きではつごうが悪かった。そしてよく見ると、大権現は西洋の天使のように背中で羽を広げている。秋葉大権現像は恐い鳥の化身、あるいは天狗と言ったところなのだろう。同類作は木喰にはないはずだが、なぜ今頃この像が公開されたのだろう。所蔵は鳥取の秋葉山堂というが、柳の生誕120年ということもあって、今回は特別に移動の許可が下りたか。この像は1階奥の蘭の花がよく飾ってある特別室のようなところの中央に1点のみ飾ってあった。木喰が形の変わったものをたまにいろいろと彫っていたことがよくわかる。今回は他に5点の木喰像が展示されたが、そのうち3点が鳥取県の指定文化財だ。チラシ裏面にそれらのうち「恵比寿像」と「大黒天像」の図版が掲載される。いずれも木喰像独特の顔の表情だが、全体的にはとても珍しい形をしているし、また「秋葉大権現像」と同じく、白木に近い状態に保たれる。木喰仏はだいたい茶褐色か黒ずんでいるのが常だが、鳥取では保存状態が違ったのだろう。木喰のほかに今回目立ったのは大津絵だが、それらの中でも仏教に因むものが選ばれた。大津市歴史博物館のもので、筆者は何年か前に同館で開催された大津絵展で見たはずだが、大津絵はみな雰囲気がよく似るし、一度見た程度では細部まで印象に残らず、また別の場所で見ると味わいは新鮮だ。今回は筆者もその店の前まで行ったことのある三井寺のすぐ近くに住む大津絵店の作家が会期中に講習会を開催し、「鬼の念仏」を手本に素人が描いた数十点を並べるコーナーがあった。それは1階北側の廊下で、いつもは閉じられている小部屋空間で、筆者は今回初めて入った。素人が手本を真似して描いても、大津絵はそれなりにユーモアが漂って面白い。むしろ、そうした素人が素朴に描いたものの方がいいかもしれない。先生が描く手本は数倍の大きさで、いかにも堂々としていたが、手慣れ過ぎている感があり、またその手慣れが江戸時代の大津絵のような素朴なものではなく、どこか違和感の漂って、現在の大津絵の困難さを見た思いがする。かといって素人が描いたものはやはり素人過ぎる、つまり趣味の域を出ないもので鑑賞には耐えない。そこから大津絵を、あるいは柳の思った民藝の理想を改めて考えることになる。柳の理想は、不如意ではあったかもしれないが、今回も作品が展示されたように、濱田庄司、棟方志功、芹沢、河合、黒田といった民藝系の芸術家に結実したのであって、職業的大津絵画家という道は誰も選ばなかった。また大津絵が完成していたために創造的才能のある者は誰も選ぶことが出来なかったのではあるまいか。そこに江戸時代に描かれた大津絵の大きな価値があるし、古き民藝が現在にそのまま伝わることの不可能性もある。生活が変化し、人の意識が変化し、民藝だけがそのままということはあり得ないのだ。
●『民藝と仏教美術-柳宗悦のこころうた-』_d0053294_1324092.jpg さて、今回は館を入ってすぐの廊下に柳の書がかかっていたのが目を引いた。心偈の掛軸で、2行にわたって「ドコトテ御手の真中ナル」と書かれている。それはいかにも真面目そうな、それでいて独特の味わいがあって、筆者はそうした柳の書を最初に知った当時、いったいどこにつながって出て来たものかと不思議に思った。長年のその思いが今回氷解した。図録を買わなかったので記憶は曖昧だが、柳は京都の骨董商から1冊の室町時代の天文年間の高僧の筆になる本を入手した。展示作品一覧によると、「色紙和讃(天文版)のうち 高僧和讃」とあるが同じ題名のものがもう1冊展示されていて、濃い桃色地の紙にやや大きめのたっぷりとした字が並んでいた。どちらも柳が入手したもので今は当然東京の民藝館所蔵になっている。筆者は説明書きを読まずにまずその書を見た時、一瞬にして柳と同じ書体をしていることに気づき、柳が手本としたことを確信したが、説明を読むとやはりそうであった。柳はこうした書物がまだ京都の骨董商から入手出来ることに驚き、また1冊だけではなく2冊も自分のものになったことを非常に喜んだ。室町時代の高僧というのであるから、柳が喜ぶのも無理はない。柳がその書を模倣しながら、当時の仏教の深さに同化しようという思いもあったに違いない。今回の展覧会のタイトルが「民藝と仏教美術」とあるのはいかにも重要だ。柳が讃える民藝から仏教的なものを取り去れば、そこには何も残らないだろう。それは、リルケの詩に「ドコトテ御手の真中ナル」と同じようなことを言ったものがあることからして、仏教に限定せず、宗教的な思いと言い換えてもよいが、とにかく「ドコトテ御手の真中ナル」という大きな何かにいつも包まれている思いだ。柳が改まった気持ちで色紙や掛軸に書く筆字の最も初期のものと、室町の高僧の字体に学んで以降のものとの差を知りたいと思うが、柳は若い頃からいつも理想的な自身の書風を模索し続け、その結果ひょんなことで高僧の書に出会って狂喜した。だが、「ドコトテ御手の真中ナル」は昭和34年の最晩年のもので、案外柳がそうした字を書くようになったのは晩年のごくわずかな年月だったかもしれない。柳の肖像写真と柳の四字の書「無有好悪」の写真が並べられる生誕百年記念の時のチラシを参考に掲げておくが、その書には天文年間の高僧に倣いながらも柳の息づかいがはっきりと伝わる。その高僧の書は柳が発見した沖縄や朝鮮の民藝と同じようなもので、高僧というだけで、それ以外に業績もさほど知られないはずの、つまり無名の僧がこれほどに美しい字を書くのかと驚いたに違いない。そして、そこに信仰の強さを再認識したが、民藝がどこまで遡り得る理念であるかを考えた時、江戸時代に限らず、また日本だけに限らず、人類にとって普遍のものではないかという確信を得たのであろう。
 高僧の和讃本を展示するコーナーには「阿弥陀聖衆来迎図」の扇面地紙があった。金泥や紺色の顔料が目立つもので、全体に素朴な表現は無名の町絵師の手になることをうかがわせるが、それを見ながら筆者はそれが江戸時代当時にどのように人々に思われたかを想像した。おそらく目利きにとっては、同じように素人っぽい表現であるとみなされ、ほとんど重視されなかったに違いないが、200年や300年という長い年月を経たことによって、何かがすっかり洗い落とされ、今は懐かしいようなオーラだけを放っている。そこで思うのは、現在の一見醜悪とも言える、あるいは公募展に出品してもはしにも棒にもかからないような陳腐あるいは力量のない作品が2、3世紀先にどのように見えているかという疑問だ。それらが「阿弥陀聖衆来迎図」、あるいは柳が見出した大津絵や他の民藝品のように美しさを保っているだろうか。それは誰にもわからない。そして、まず現在見向きもされないような作品が2、3世紀を経てそのまま伝わるかどうかだ。早々とゴミになるのが大半のはずで、柳の民藝の理念は永遠に不滅とはいえ、民藝ないし民藝的としてある作品を認めるのは、後世の人々の審美眼にかかわっている。そして、筆者が思うに、現在の民藝的なる作品はやはり信仰心のようなものがなくては生まれ得ないという確信であり、またそれは民藝に限らず、あらゆるものに言える気がする。もう少し言えば、それはやはり柳が言ったように健康な心を宿したものであって、それを言い替えれば生の喜びでもある。明治期の技術力が頂点に達した精緻な輸出用の工芸品と民藝との違いもそこにあるように思う。明治の工芸家たちが病的であったと断言するのではないが、そこには何かに執着し過ぎる、そして何かを誇示しようという思いが見え過ぎる。労苦の跡が明白なものは見ていて辛い。労苦は讃えるべきものであろうが、誰しももっと明るいものを好む。柳の民藝が言うのはそれだ。労働をロボットに任せるべきという西洋の思想をどんどん取り入れた日本は、手仕事の楽しさというものを忘れて評価しなくなったが、これから生み出される作品や物が民藝的なものになり得るかどうかは、手仕事の楽しさを再認識する必要がある。あるいは民藝的なるものを拒否する立場があってよいのは当然だが、楽しさを感じさせないものはいずれ見捨てられると言っておこう。
by uuuzen | 2009-12-29 01:30 | ●展覧会SOON評SO ON
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