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●「THE WORLD IS A GHETTO」
主党の圧勝で以前より知性が感じられる政治家がTVによく出るようになった。ヤクザの親分のような睨みの貫祿だけがあって、文化度の乏しい政治家はもう退場してもらった方がいい。



●「THE WORLD IS A GHETTO」_d0053294_9454243.jpgついでにTVに登場する芸能人にももっと知性がほしいものだが、食べることと笑いだけが今の日本のTV番組の視聴率の稼ぎ頭で、馬鹿騒ぎはとどまるところを知らない。先日のネット・ニュースで、TVを必要と考えない若者が4人にひとりくらいだったか、思う以上に多くなっている調査結果が出ていた。なかなか健全なことと思うが、TVを見なくなった分、読書に時間を潰すかと言えば、案外そうではなく、TVゲームや漫画かもしれない。それはいいとして、民主党の鳩山党主が掲げる友愛の理念は、コンクリート建造物より人々の生活を重視するとかで、教育費などいろいろと援助の手段が講じられる。その一方、先日はまた日本が貧困率が高いことを報じていたが、それをネタにしてコメンテーターが何をもって幸不幸を言うのかと問題提起していた。「貧しい」と言えば、「お金が乏しい」ということが日本の常識になっているが、それ以上に日本の「精神的な」貧困性をはっきり示すことはない。お金が乏しくてもそれなりに内面が満ちていれば幸福であるし、その反対にお金が無限に近いほどあってもかえってお金を溜め込む病気になって、幸福を感じない人もある。幸福の度合いをお金だけで計ることは無理な話だ。今の日本は半世紀前に比べると貧困の経済的レベルが格段に上がって、どうにか食べることが出来るだけまだましという見方も出来るが、人々の間に昔より何となく貧しいという感覚が増したのは、収入の格差が大きくなり、また地域社会のつきあいが希薄になって人々が冷淡になったからではないだろうか。自分だけよければ他人の不幸には関心を持たない、あるいは持つ暇もないというのが実情で、経済的に貧しい人も、またそうとは言えない人も孤独になった気がするが、それは過去の経済的な貧しい時代と比較してのないものねだりであると主張する人もあるだろう。話は変わるが、先日朝のバスに乗って、いつも行くスーパーの界隈を通りがかる時、若い母親が乳母車に子どもを乗せて歩道を歩いている姿を背後から見た。ほんの2、3秒だったが、母子の姿は鮮烈に記憶に刻まれた。母は20代半ば、美人ではなく、ヤンキーをしていたような雰囲気だ。灰色の木綿のパーカーを着ていたが、背中の裾に破れが大きく2、3か所あった。安物の上着なのでいずれ捨てるつもりで縫うまでもないと考えているのか、かなりみっともない姿に思えたが、その反面、そのようなボロを着なければならないほどに経済的に困窮していることも何となく伝わった。乳母車には2歳半ほどの、もう充分歩けそうな男児が乗って、後ろを向いては母親に笑顔を振りまいていた。それを母親が首を前にかがめ、笑顔で応えていた。ふたりには朝の光がちょうど当たって、とても気持ちよい朝の散歩か買物といった感じが伝わった。その母親には旦那がいるのかどうか知らないが、いたとしても家族の生活はぎりぎりだろう。また、旦那がいないとすれば、経済状態はなおさら母親の姿がよく示していると思えた。バスはすぐに追い抜いて行ったが、筆者は涙ぐんだ。その母子は民主党が勝とうが自民党が勝とうがさほど関心がないに違いない。どんな政権になっても、いつも見捨てられたような貧困家庭だろう。だが、その母子はとても楽しそうで、とても満ち足りて見えた。とはいえ、その母子がスーパーで慎まし過ぎる買物しか出来ない状態からせめて少しは脱することが出来る政治を筆者は期待する。
 母子が近くを歩いていたスーパーは『おにおにっ記』で筆者が書いているムーギョ・モンガだが、筆者は京都に出て来てその界隈に最初住んだ。そこは昭和30年代に開けた町で、今では世代が老齢化した下町だ。筆者は大阪生まれだが、ゲットーと言えばおおげさかもしれないが、その言葉を適用してもあながち間違っていない場所であった。ここで書いておくと、手元の辞書によると、ゲットーはイタリア語の「鋳造所」に由来する言葉で、ヴェネツィアの鋳造所近くにあったユダヤ人強制収容所を指すようになり、今では大都会の少数民族居住地区を意味するようになっている。アメリカで言えば黒人が多く住むスラム街ということになる。昭和30年代前半はまだ日本中が貧しかったから、日本の大部分がゲットー同然であったかもしれない。ともかく、貧民が多く、その分住民は助け合う場面も確かにあったが、どの町、横町にも見栄張りはいるし、貧しさの均衡はいつまでも固定化しない。それが経済発展、日本で言えば高度成長であったが、見栄を張って生活していた者が、一夜明ければ夜逃げして家はもぬけの殻といったことも筆者は身近に見た。そうした人々に対する記憶を綴るといくつも小説が書ける気もするが、もうとっくに昔の話の誰も興味は持たない。それほど日本は大金持ちになり、金持ちが増えた。つまり、夜逃げせずに済んだ者からは大きな成金が多く登場した。貧しい地域の貧しい住民は、貧しさから心がすさんで人の物を平気で盗むということも確かにあるが、それは貧しい住民を金持ち連中が援助する心を持たずに蔑み、また政治がそうした貧困者の方を向かないという図よりもまだはるかに罪がなく、かわいいものだ。貧しさゆえの連体が基本としてあるからだ。それは世界中どこでも同じではないだろうか。今また思い出したので書いておくが、先日のTVで、東京を空から観察して、面白い建物があると、それを下界で別に訪問して紹介するという番組があった。その中に名前は忘れたが、アメリカ人と出会える会員制のクラブが紹介された。入会の条件は面接、そして安くはない入会金の支払いだ。内部のパーティーの情景が映って、日本の40代の何人かの女性の顔や姿が見えたが、どの女もそこそこ知性があって美人に属するとはいえ、その物ほしそうな作り笑顔には胸糞悪さを覚えた。アメリカ人と出会って知性を高め、あわよくば結婚や不倫などを考えているのだろうが、アメリカ、会員制クラブ、英会話、出会いなどなど、そういう場所に出入りして何かを望むような女の底は知れている。金はあっても頭が安っぽいのだ。正直な話、先に書いた破れたパーカーを着た母親の方がどれだけ好感が持てるだろう。
 今日取り上げる曲は、先日の『おにおにっ記』で思い出したので、予定を変更して「世界はゲットーだ!」について書く。この曲はウォーというアメリカ西海岸の黒人主体のバンドが1972年に発売した同名タイトルのアルバムに収録されている。それを5年後にジョージ・ベンソンが『イン・フライト』というアルバムでカヴァーしたが、筆者は後者が大好きだ。初めてラジオから聴いたのはアルバムが発売された年であった。ウォーのヴァージョンは10分ほどだが、ベンソンのもほぼ同じくらいに長い。演奏家の音楽性の違い以上に、5年という年月の差は大きい。その比較をするにはアメリカ社会の変化をまず考える必要がある。簡単に言えばヴェトナム戦争だ。ウォーというバンド名はそれに由来する。そのことからもウォーの曲が社会に視線が向いていることが推察出来る。それはたとえばザッパの立場とは共通する。ベンソンはよく他人の曲をカヴァー演奏して大ヒットさせたが名曲を選ぶ勘が鋭く、たとえばレオン・ラッセルの「マスカレード」をいち早く見出してカヴァーし、原曲以上に大ヒットさせるなど、なかなか商売上手だ。またそのカヴァーの方法は時代の音楽の好みをよく見据えて、どうアレンジすればよいかも的確に知っていた。そのため「世界はゲットーだ!」にしても、ウォーのヴァージョンよりもむしろよく人々に知られたはずだ。原曲にあった重要なメッセージ性を、ディスコというブームに乗せてかなりうすめ、娯楽一辺倒に作り変えた。それはウォーの原曲を愛する人からすれば一種の冒涜に思えるだろうが、新たな音楽性の付与とその成功の点からは賛辞は絶えないはずだ。『イン・フライト』の最初にはナットキング・コールが歌った「ネイチャー・ボーイ」のカヴァー曲が収録されるが、その陰に隠れて、また曲が長いこともあって「世界はゲットーだ!」はあまりヒットしなかった。ただし、そのディスコ調にリズムは当時ローリング・ストーズも「ミス・ユー」で用いるなど、時代を大きく特徴づけたもので、12インチのシングルLPも作られたから、ディスコでは人気があったのだろう。ちなみに12インチ・シングル・ヴァージョンは『イン・フライト』ヴァージョンと同じ長さで、音はよくなっているとしてもこれは物足りない。ところで、80年代のいつだったか、筆者はこの曲を聴きたいためにフェスティヴァル・ホールにベンソンのコンサートに行ったが、演奏されなくてがっかりしたことがある。また、ケーブルTVで去年だったか、ベンソンの90年代のロンドンかどこかでのコンサートが放送されたが、その時にも演奏されず、ベンソンの曲としてはほとんど知られない部類に入るのだろう。これは前にも書いた記憶があるが、少し寄り道しておくと、そのベンソンのコンサートの番組はとてもよかった。後半になると、中年女性を中心とした観客が何十人も舞台の前まで出て来て、ベンソンのギターと歌に合わせて踊るのだったが、その楽しい雰囲気は見ているこっちまで楽しくなった。音楽に合わせて思い思いの格好で踊るというのはごく自然なことだ。だが、日本の若いミュージシャンのコンサートではみんながよく同じフリで腕を振ったりすることはどうにもいただけない。そんな気持ち悪い一体感ではなく、眼前で演奏されている音楽に正直に反応して、自分が心地よいように勝手に踊るというのがいいのだ。また、ベンソンは自分の演奏がそのように享受されるが本望といった雰囲気がありありとあった。そのため「世界はゲットーだ!」をよりダンサブルなアレンジにしたことはベンソンの音楽性であった。
 ベンソンはなぜウォーのこの曲をカヴァーする気になったのだろう。黒人の連帯意識からか、あるいは単に名曲と思ってのことか。ウォーというバンドについてはまた日を改めてこのカテゴリーで取り上げたいと思っているが、彼らの演奏は全体的にスローで、もっと暗い印象がある。それこそがまさに60年代末期から70年代初頭にかけての黒人音楽のムードだが、そのオリジナルと呼んでよいファンクのムードにラテンやジャズの要素を加えてもっと演奏速度を早め、華麗にしたものがベンソンの方向と思えばよい。また「世界はゲットーだ!」もそうだが、ベンソンはストリングスの伴奏を好み、一種映画音楽的な情緒ある視覚性を高めている。ストリングスの伴奏はベンソンに限ったことではなく、ジェームス・ブラウンやマーヴィン・ゲイなど昔から黒人音楽にあったし、それを意識したのかジョン・レノンの『イマジン』でも用いられた。だが、レノンの曲ではあまり効果を上げていないその弦楽器の伴奏に比べて、ベンソンの「世界はゲットーだ!」は冒頭からいきなり響きわたり、またディスコ・ビートが始まってからも、随所でそれが鳴って効果を高めている。それはほとんどイージー・リスニングのインストゥルメンタル曲と言ってよい雰囲気で、歌がないままほとんど曲の半分ほどが過ぎる。そしてベンソンはようやく歌い始めるが、歌詞はほとんど付け足しと言ってよいもので、そこにウォー以上のダンス音楽指向がよく見える。また、ベンソンはウォーの書いた歌詞の前半部しか歌わないが、なぜ後半をはしょったのだろう。前半のみではこの曲の意味するところがわからず、メッセージ性をすっかり無視した暴挙とも思える。これは筆者の想像だが、ベンソンは録音時に後半部も歌い演奏したが、LPの収録時間の関係で最後の数分を削ったのではないだろうか。何度聴いてもそのような不自然さがアドリブの最後とそれに続く結末部にはある。ともかく、歌詞前半を歌った後、ベンソンは即興でギターを演奏しながら、それと同じメロディを口ずさむ。それがこの曲の最大の聴かせどころで、ベンソンの天才的な離れ技とリズムに乗った力のうねりに圧倒される。黒人ミュージシャンならではのと言えば偏見になるかもしれないが、そうとしか思えない神がかり的な、つまり舞踊と音楽の始源的な忘我的境地が披露される。そして、ベンソンのような演奏が出来ないザッパはそれを意識しながら、より複雑な自分の即興ヴォーカルをスティーヴ・ヴァイに写譜させ、またギターでなぞらせるということを数年後に行なうが、そうした着想をザッパは楽譜を用いることによってベンソン以前にすでに知っていたにしても、ヴァイがザッパの歌にギターでなぞったことの直接の影響はやはりベンソンのこの曲にあるように思う。それほどにベンソンの演奏はギターと歌がユニゾンでどこまでも連なって行く。脳裏に浮かんだメロディをギターで弾きながら同時に口で奏でるという行為がどれほど難しいのかわからないが、ギターも歌もこなすベンソンであればこそで、これはあまり歌が上手ではない名ギタリストと大きく一線を画すところだろう。好んで歌うギタリストとしてマイク・ケネリーを思い出すが、マイクがベンソンのこの曲のような芸当を披露した例はないだろう。話を戻して、冒頭のストリングス、そして歌、即興演奏と気分よく続く演奏であるから、即興の後にまた歌が始まってウォーの書いた歌詞の後半部が歌われてよかったのに、即興部分が終了した直後にごく短い歌詞があって曲は突如終わる。それはせっかくのこの大曲の心地よさをかなり削いでかなり残念だが、別ヴァージョンは目下のところ存在しないようだ。最近ネット・オークションで紙ジャケの『イン・フライト』が安価で出品されながら買わなかったが、音がかなりよくなっているのであればいつか聴いてみたい。
●「THE WORLD IS A GHETTO」_d0053294_9462227.jpg 「世界はゲットーだ!」という題名はなかなかの名言だ。経済的金持ちからすれば受け入れがたい言葉だろうが、ウォーのメンバーにすればそう主張せざるを得ないほどに黒人社会の悲惨さと友愛さを知っていたと考えるほかない。ウォーはアメリカ西海岸を本拠にしたバンドで、アルバム『世界はゲットーだ!』ではジャケット裏面に7人のメンバーの写真が掲げられる。ひとり白人が写っているが、ハーモニカのリー・オスカーで、後年ウォーのメンバーではひとり有名になり、日本でも馴染みになる。ヨーロッパ出身のリー・オスカーを黒人たちが受け入れたところにも友愛が感じられ、そのことが「世界はゲットーだ!」の歌詞にはそのまま反映している。ウォーの黒人メンバーの風貌をひとりずつ見て行くと面白い。ジョージ・ベンソンのようなぎらつきはなく、誰がリーダーというのでもなく、太っちょから痩せ型、眼鏡男にアフロ・ヘア男など、全員人がよさそうで素朴な印象がある。その様子は2枚組のライブ・アルバムからはもっとよく伝わる。これは見開きジャケットの裏表とも全部メンバーの写真が埋め尽くされる特異なデザインとなっているが、そのステージでの演奏の写り具合はザッパの『ロキシー・アンド・エルスウェア』を連想させるに充分だ。さて、歌詞を簡単に紹介しておく。ベンソンが歌う部分は、「通りを歩くスモッグに曇った目、空を見つめる星のような目、場所を探す疲れた目、夜に泣く涙の目。ぼくにとっても君にとってもそれが真実だって知っているかい? 世界はゲットーなんだ。」という部分のみで、冒頭部分は歌詞中で最も詩的な箇所になっているが、それをストリングスの音が的確に表現している。ベンソンが取り上げたこの前半部は、ゲットーの悲しい、そして夢もある生活を端的に示しているが、どちらかと言えば貧民街の夢のない、汚れた部分が強調され、金持ち連中は眉をしかめるだろう。歌詞後半は「ぼくはどこかに素敵な家庭を持ってパラダイスを見つけるだろうか。ぼくが幸福を見つけることなど、今は諦めた方がいいだろう。どこかに幸福を見つける必要はないんだ。幸福はここにあって、みんなと分けるものなんだ。君が愛が安全であるべきと思うなら、パラダイスこそが愛が確かなところなんだ。ぼくにとっても君にとってもそれが真実だって知っているかい? 世界はゲットーなんだ。」といった意味だが、ここではパラダイスは幸福を分け与え合うゲットーにある歌っている。つまり、世界中がゲットーという貧民街になってしまえばよいという持たざる者のやけっぱちではなく、世界はみんなが幸福を分け与え合う意味でのゲットーであるべきだと主張している。この後半部をベンソンが歌わなかったところに、ベンソンの成功したミュージシャンとしての当時の不動の地位が感じられるし、また愛と平和を歌う必要がなくなったヴェトナム戦争後のアメリカの金儲け主義が見える。そして残されるのはただ貧しく汚いだけのゲットーということになりそうだ。だが、やはり日本にも愛を分け与え合う者たちはいる。最初に書いた貧しい身なりの若い母親と子どもに日差しが降り注いでいたことを改めて思い返す。
●「THE WORLD IS A GHETTO」_d0053294_14344373.jpg

by uuuzen | 2009-10-29 09:49 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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